小山城【2020/2/24】
静岡旅行2日目最初は小山城でした。
諏訪原城と同様に武田氏の遠江進出の橋頭保として1571年(元亀2年)築かれました。
城主は大熊朝秀。元々は上杉謙信の家臣でした。
謙信の出家騒動の際に武田信玄に内通。敗れた後1563年(永禄6年)から武田家に仕えました。
最終的には天目山の戦いで討死しています。
現在は能満寺山公園として整備されており、「展望台小山城」という模擬天守が建てられています。
天守の直下には整備された本曲輪と丸馬出が見えます。
丸馬出の説明に使いやすい写真ゲット。
大井川に突き出した舌状台地の先端に築かれています。
諏訪原城と似た立地。
周りに高い建物もないですし、天気も良かったので眺めは抜群。
正面に富士山も見えてますね。
馬出自体立派なものですが、最大の特徴は三日月堀が3重であること。
三重の三日月堀は全国的にも多分ここだけです。
感想
三重三日月堀のためだけに訪れる価値のある城です。
御前崎周辺は結構面白い城が多いので、今度はゆっくり回ってみたいですね。
参考
諏訪原城【2020/2/23】
遠江攻略の拠点として、武田勝頼が馬場信房らに命じて、牧之原台地の東端、大井川に突き出た舌状台地の先端に築かせた城です。
城のすぐ南を旧東海道が通っていて、現在も江戸時代の石畳が残っています。
戦略的重要性がわかりますね。
10年前は城内は畑だったんですが。現在はガイダンス施設や駐車場が整備されて、見学しやすくなりました。
縄張りの特徴は、冒頭の写真のような丸馬出を多用している点です。
このように二曲輪には全部で6基の馬出が築かれています。
しかも北と南の虎口は、馬出を多重に配置しています。
現存しない大手外馬出を含めると7基の馬出がありました。
各曲輪の空堀もなかなかの規模でした。
本曲輪の空堀内には井戸が残っています。
感想
丸馬出を多用した武田氏の築城術を代表する城…
という評価が一般的でしたが、どうも二曲輪や大手曲輪を整備したのは、武田氏ではなく徳川氏という説も生まれています。
徳川家康は当城を攻略した後、城を「牧野城」と改称し、松平家忠・牧野康成を城代に任じていますが、その段階で本曲輪にあった馬出を潰し、新たに二曲輪と大手曲輪を整備したとする説です。
発掘調査では武田氏の遺物が見つかっていないことも、この説を補強しています。
実際のところはどうなのか。
いずれにしても、「続日本100名城」に相応しい遺構を堪能できました。
参考
掛川城【2020/2/23】
もともとは朝比奈氏の居城でした。
朝比奈泰朝が城主だった1568年(永禄11年)、武田信玄の侵攻から逃れた今川氏真を迎え入れ、攻め寄せる徳川家康に対して籠城戦が繰り広げられました。
最終的に掛川城は落城し、家康重臣の石川家成が城代となりました。
現在見られる近世城郭を築いたのは、家康関東転封後に城主となった山内一豊です。
江戸時代は譜代大名が交代で入り、最後の城主は太田氏でした。
平成7年に復元されました。
道路との兼ね合いで本来の位置から50mほど北に復元されています。
太鼓櫓は現在本丸に移築されています。
御殿が現存する城は全国に4か所しかありません。(他に川越城・二条城・高知城)
12基残る天守よりも貴重。
二の丸御殿内部でやっていた竹細工ランプの展示
おまけ
過去の城攻めでは城しかみませんでしたが、今回は城下町も少し散策しました。
大日本報徳社は二宮尊徳の弟子岡田佐平治が興した「遠江国報徳社」を期限とする「報徳精神」の普及を主な活動とする公益財団法人です。
写真の大講堂(重要文化財)をはじめ、明治末期に建てられた建物群が現存しています。
ちなみに3時間1万円程度で借りることもできます。
感想
これで3回目の訪問ですが、飽きない城です。
天守・御殿・櫓・門と近世城郭の構成要素が一通り揃っているのが大きいですね。
ただし、天守の復元については賛否が分かれるところ。
一豊の掛川城天守を模して築かれたとされる高知城天守を参考としている関係で、幕末の絵図に描かれた、高覧がなく下見板張りの天守とは明らかに異なっていますからね。
今回は時間に余裕のある旅だったので掛川城本体だけでなく、城下町も少し散策しましたが、結構面白い町でした。
参考
高天神城【2020/2/23】
「高天神を制するものは遠州を制す」
そう呼ばれた遠江の要衝です。
今回は横須賀城からバスを乗り継いでいきましたが、掛川駅からバスで行くのが一般的。
バス停は続日本100名城スタンプのある公民館前。
城の登り口までは、そこから徒歩20分程度です。
城の概要
歴史
駿遠国境に近く、以下のように武田・徳川家の間で争奪戦が繰り広げられました。
1571年(元亀2年)3月 武田信玄が攻めるも、本格的な攻城戦は行わず。
1574年(天正2年)5月~6月 武田勝頼が包囲、城主小笠原氏忠は降伏開城。
1578年(天正6年)~1581年(天正9年)3月22日 徳川家康が包囲・攻略(この間に横須賀城を始めとした付城を築く)、最終的に城代岡部長教は討死。
天正2年に武田勝頼が攻略するも、翌年の長篠の戦い以降は徳川家康の攻勢が強まり、遠江における武田氏の拠点は高天神城・小山城のみに。
高天神落城から1年後、武田氏も滅亡しました。
構造
標高132mの鶴翁山に築かれた山城ですが、「一城別郭」と呼ばれる構造をしています。
東西2つの峰にそれぞれ本丸・西の丸を中心とした独立性の高い曲輪群が築かれています。
東峰
大手口から登っていくと、最初に見えてくるのが三の丸・本丸等で構成された東側の曲輪群です。
横堀や堀切はあまり見られず、自然地形に頼った防御が目立ちます。
高天神城の三の丸。周囲には土塁が築かれています。
戦前に模擬天守が築かれていたそうです。
現在は基礎のみが残っています。
西峰
本丸から西の丸へは一度鞍部に降りて、もう一度登る必要があります。
鞍部には2か所井戸があり、北側には搦手道が伸びています。
西の丸には、「高天神城」の名前の由来となった高天神社があります。
鶴翁山は北・東・南は急峻な崖ですが、西側は比較的緩やかな斜面であり、背後の山地と尾根で接続していて防衛上の弱点となっています。
このため西の丸周辺は、本丸と比べると堀切等の防御設備を盛り込んだ技巧的な縄張りが見られます。
馬場からは遠州灘を一望できます。
高天神城落城を武田勝頼に伝えるため、軍監横田尹松がこの細い尾根道を通って脱出したそうです。
現在はハイキングコースとなっていて、誰でも通れます。
西の丸北に延びる尾根に築かれた・井楼曲輪・堂の尾曲輪・馬出曲輪が場内で最も技巧的な部分になります。
山城ながら横堀を設け、尾根先端部ではその外側に堀切を設けて、実質二重の堀切としています。
各曲輪同士も堀切でしっかり区画されています。
城の西側への防備をかなり意識した構造ですね。
感想
堅固な山城として有名ですが、意外と比高がないなというのが最初の印象
実際のところ比高は100mほどなので、山城としては低い方ですね。
しかし急峻な地形を生かしながら、堀切・横堀を上手く組み合わせて守っています。
徳川・武田の猛攻に耐えたのも納得。
参考
対馬要塞
対馬では2か所の要塞を見学してきました。
↓は豊砲台を真下からスマフォで撮影したもの。
豊砲台
対馬2日目
最初に訪れたのが豊砲台です。
厳原からは車で北上すること2時間弱。
対馬は南北に細長い島ですが、端まで行くとやっぱり遠いですね。
壱岐の黒崎砲台と同様に、ワシントン海軍軍縮条約で建造中止となった戦艦土佐あるいは巡洋戦艦赤城の41㎝主砲が転用され、1929年(昭和4年)に建造されました。
コンクリート表面に石が埋め込まれていたり、微妙に色がついていたりしますが、これは迷彩でしょう。
まだ残っているのがスゴい!
入口にあるスイッチを押すと30分間照明が点灯するので、見学は楽です。
崩れかかって鉄筋がむき出しになったコンクリートがイイですね。
主動力機室
手前に見えるコンクリートの台座に、100馬力のディーゼルエンジンが置かれていました。
砲台二階は倉庫でした。
1945年(昭和20年)10月、米軍の爆破班により解体されましたが、コンクリート構造物は完全には爆破・解体できなかったようです。
砲塔内部がボロボロなのは爆破の影響かな?
姫神山砲台
旅の最後に訪れたのが姫神山砲台
こちらは日露戦争前の1901年(明治34年)に、敵艦が万関瀬戸(海軍が開削した運河)を通り浅茅湾へ侵入することを阻止するため建造されました。
浅茅湾には当時海軍の基地(竹敷要港部)が置かれており、浅茅湾周辺には本砲台以外にも多数の要塞が築かれました。
麓の緒方集落に車を止めて、舗装された山道を40分ほど歩きます。
「天空の要塞」として売り出しているみたい。
一応山頂近くまで車で行けなくもないですが、待避所がないので対向車が来たら終了。
おとなしく麓に止めましょう。
豊砲台とは異なり、明治期らしく建材は赤レンガと石材です。
「棲息掩蔽部」とは兵舎・弾薬庫・砲具庫等に使われた施設だそうです。
本砲台には日露戦争中の旅順要塞攻囲戦や奉天会戦での活躍で有名な、28センチ榴弾砲が2門×3基の計6門配備されていました。
指揮所と観測所は砲台の両脇にそれぞれ一基築かれていました。
観測所は円形の鉄製屋根で覆われ、中央の丸い赤煉瓦の上には観測機器が置かれていました。
参考
世界最大級の巨砲 豊砲台|城・砲台|モデルコース|一般社団法人 対馬観光物産協会
天空の要塞 姫神山砲台|城・砲台|モデルコース|一般社団法人 対馬観光物産協会
壱岐要塞(黒崎砲台)
東シナ海・日本海を結ぶ対馬海峡は交通の要衝として、戦前旧日本軍の手で数々の要塞が築かれました。
3月に壱岐・対馬両島を観光しましたが、その中でいくつか要塞跡も回ってきました。
黒崎砲台
壱岐要塞の中でも比較的訪れやすいのが黒崎砲台です。
壱岐で最もメジャーな観光地「猿岩」のすぐそばにあって、駐車場も猿岩の駐車場をそのまま使えます。
黒崎砲台は1922年(大正11年)に締結されたワシントン海軍軍縮条約によって建造中止となった、戦艦土佐あるいは巡洋戦艦赤城の41㎝主砲を転用した砲台です。
両艦ともいわゆる「八八艦隊計画」に基づき建造が進められていた艦艇ですね。
同じタイミングで見学に来ていたバスツアーのガイドさん曰く、「砲台建設に使われたコンクリートは壱岐製で、地元の小学生が集めてきた石を使っている」とのこと。
参考
横須賀城【2020/2/23】
2月23日から2日間で静岡県の城を巡りました。
高天神城攻略のため、徳川家康が大須賀康高に命じて築かせた城です。
今は太平洋には面していませんが、江戸時代中期ごろまでは城のすぐ南が海だったそうです。
このお城の見どころはなんといっても石垣です。
一般的な石垣は積み石がもう少し大きく角ばっていますが、横須賀城の石は小さくて丸くかわいらしい見た目をしています。
これは河原石を使っているためで、全国的に例があまりないものです。
横須賀城の石垣は本丸南面とその南側の帯曲輪・虎口周辺のみに用いられており、その他の部分は土塁・切岸で防御しています。
「三日月堀」という名前ですが、見た目が半円状なだけで、丸馬出に付随した施設ではありません。
低い石垣で固められた不等辺多角形の構造
ここに3層4階の天守が建っていたそうですが、複雑な天守台なので、どんな見た目か想像がつきません。
横須賀城には移築建物が何件かありますが、今回はそのうち掛川市大須賀支所前に移築された町番所を見てきました。
感想
河原石を使った石垣というのは他に例がないわけでもないです。(鉢形城三の丸など)しかし近世城郭でというのはたぶんここだけ。珍しい遺構を見れて良かったです。
縄張りでは、かなり中世城郭的な要素が強い印象を受けました。
虎口も形がはっきりした枡形虎口というわけではなく、主要部であるはずの本丸・西の丸もかなり狭い曲輪です。(御殿は二の丸にありました。)
太平洋沿いにサイクリングロードもあるので、こんどは自転車で来てみたくなりました。