小幡城【2020/1/18】

関東屈指の遺構を堪能できる中世城郭

小幡城

小幡城全景 この里山の中に、関東の中世城郭屈指の遺構が眠っている

府中城の次に訪れたのが小幡城

茨城県内最大の中世城郭ですが、公共交通機関でのアクセスは難易度高め

石岡駅または水戸駅からバスが出ていますが本数は少ないです。

今回は石岡駅からバスで訪問しました。

最寄りのバス停(新小幡)からは徒歩15分ほど

城跡の西側を東関道が通っているので、車の方が楽だと思います。

駐車場も完備

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小幡城の入り口

茨城町指定史跡小幡城跡」の立派な看板があるので、ここが大手だと錯覚しますが、そこには落とし穴があります。

小幡城縄張り図

小幡城縄張り図

城跡の案内板の縄張り図ですが、現在の見学ルートは赤色の矢印です。

二重の横堀のうち北側の堀に入ると、すぐに横堀間の土塁を横切り、南側の横堀に入ります。その後内堀を一周してもとの場所に戻ってくるというルートです。

往時は南北二つの横堀は行き来が出来ませんでした。(後世に土塁が切り崩されたようです。)

つまり最初に北側の横堀に入ってしまった敵兵は、堀底を進んでも、上記の縄張り図でいうところの「七の郭」「五の郭」間の土橋で行き止まりになってしまいます。

この点だけでも、このお城の縄張りがいかに技巧に富んでいるかがわかるかと思います。

六の郭・二の郭間の横堀

こんな規模の空堀が延々と続いています。

本丸土橋

本丸土橋 撮影者がいるのは四の郭と五の郭を結ぶ土橋

本丸土塁

本丸土塁

本丸井戸

本丸井戸

本丸空堀

本丸空堀 三の郭との間の堀です

ここまで遺構の素晴らしさについて語ってきましたが、それに反して、城の歴史には不明な点が多いです。15世紀ごろに築城されてことは確かなようです。本城は水戸城を拠点とする江戸氏の支配領域の南端にあたり、府中城の大掾氏との「境目の城」でした。そのような極度の軍事的緊張の中で、16世紀後半には現在見られる壮大な城郭へと拡張されていったようです。

感想

幾重にも張り巡らされた横堀に圧倒されました。単に横堀が深く広いだけでなく、折れを伴っていたり二重にしていたりと技巧を凝らしています。微妙なアクセスを除けばオススメなお城です。

参考

現地案内板

峰岸純夫・齋藤慎一編 「関東の名城を歩く 北関東編」 吉川弘文館 H23/9/20 

府中城(府中陣屋)【2020/1/18】

ブログ開設初の記事が、このお城でいいのかという気持ちは正直ある。

府中陣屋 陣屋門

「石岡の陣屋門」(茨城県指定文化財

 そもそもこのお城は10年くらい前に行ったことがあり、今回の旅は小幡城・水戸城に行くのが主目的で、家を出発した時には全く行くつもりもなかった。

 ただ小幡城行きのバスを調べていると、石岡での待ち時間が結構あることがわかり、とりあえず寄ってみることにした。

 府中城は常陸平氏嫡流大掾氏歴代の居城だ。

 往時は本丸・二の丸・三の丸・箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸の各曲輪を備え、なかなかの規模の城郭であった。

 戦国時代は北方の江戸氏・佐竹氏の圧迫を受け続け、最後の当主大掾清幹は他の常陸国人領主の例に漏れず天正18年(1590年)常陸1国を安堵された佐竹義宣に滅ぼされてしまった。

 江戸時代は水戸徳川家分家の府中松平氏2万石の陣屋が置かれました。

  現在残る遺構は冒頭の陣屋門と土塁、本丸の空堀跡など。

府中城土塁

府中城の土塁(石岡市史跡)

府中陣屋 陣屋門(背後)

陣屋門を背後から 高麗門であることがわかります

 

石岡市にはいわゆる「看板建築」がかなり残っており、駅から城に向かう途中にあったのがこの建物

平松理容店

平松理容店 

<感想>

10年前と比べると陣屋門の位置が変わったうえで修理されており、かなり異なる印象を受けた。元々宅地開発が進んでいる城なので、遺構は少なめ。その中でも巨大な土塁や空堀が往時を忍ばせる。

<参考>

石岡市公式HP

石岡市の歴史と記憶 | 石岡市公式ホームページ