田中城【2020/2/24】

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田中城三の丸堀

田中城も諏訪原城・小山城と同様に武田氏流築城術が見られる城です。

長方形の本丸の外側に円形の二の丸・三の丸を配置した、輪郭式の縄張りが特徴的で、丸馬出も6基設けられました。

地図を見ると、円形の縄張りが現在も土地の区画として残っているのがわかります。

www.google.co.jp

城跡は宅地開発が進み、本丸には小中学校が建っていますが、所々に堀や土塁が残っています。

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田中城三の丸馬出

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田中城二の丸堀

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田中城三の丸土塁(手前の畑が堀跡)

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「田中城下屋敷」に移築された本丸櫓

本丸の二重櫓が移築現存しています。

訪問時は修理中でした…

歴史

田中城の歴代城主で紹介しておきたいのが、依田信蕃という人物です。

依田氏は佐久郡の国人領主です。

信玄・勝頼の二代に信濃先方衆として仕えています。

長篠の戦いの敗戦後、徳川家康に包囲された二俣城をよく守り、半年間耐えました。

最後は城兵の助命を条件に開城。

甲州征伐の際には田中城を守り、再び家康に抵抗。勝頼が天目山で自害したとの報を受けるまで城を守り通しました。

これだけでもなかなかの名将だとわかりますが、さらに名を挙げたのが本能寺の変の後の武田氏遺領を巡る「天正壬午の乱」です。

佐久郡経由で甲斐に攻め込んだ北条氏直に対抗するため、佐久郡でゲリラ戦を展開し北条氏の補給路を脅かしました。また、北条氏に帰属していた真田昌幸を徳川氏に寝返らせています。

信蕃の活躍もあって、家康は甲斐・信濃の領有に成功しました。

信蕃本人はその後北条方の大井城攻略中に戦死してしまいますが、信蕃の功績に報い子の康国は小諸城6万石を与えられています。

江戸時代は短期間でに譜代大名が入れ替わり、本多正信の弟正重を祖とする三左衛門家の本多正矩が4万石で入封してからは本多氏が七代続き、徳川宗家の駿河府中転封まで城主となりました。

感想

市街化が進んでいる近世城郭に僅かばかり残る遺構を、街歩きして探すの好きなんですよね。

関東で言うと岩槻城とか。

三の丸東側の堀・土塁は思っていたよりもかなり残っていました。

今度は修理が終わった本丸櫓を見に行きたいです。

参考

https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/material/files/group/116/sansaku1.pdf