伊勢亀山城【2020/6/27】
甲賀のお城を見るために、滋賀に行ってきました。
その途中で寄ったのが伊勢亀山城。
岡本良勝が天正18年に築いたお城です。
最大の見どころは多門櫓。
三重県内の城郭建築物で、元の位置に残るのはこの多門櫓と伊賀上野城武具蔵のみです。
(移築現存であれば、神戸城等も残っています)
多門櫓は天守台に建てられています。
天守台石垣は野面積で、隅の算木積も未発達。
天守は「丹波」亀山城天守の取り壊しを命じられた堀尾忠晴によって誤って取り壊されたとか。そんなことありますかね…
多門櫓は平成25年に修理されましたが、その際外壁を下見板張りから漆喰に変更するなど、築城当初の姿へと復元されました。
平成15年の発掘調査の成果に基づき、平成17年に復元されました。
本丸を北側からみたところ。
正面の土塁上には三重櫓が建っていました。
城下町
西の丸には他に外堀跡が復元されているのですが、見逃しました。
城下の寺に移築された貴重な現存建築物です。
参考
伊勢亀山城パンフレット
金田城【2020/3/22】
壱岐・対馬旅行最後に訪れた城が続日本100名城の金田城です。
某テレビ番組でも「最強の城」に選ばれていましたね。
663年白村江の戦いに敗れた天智天皇が浅茅湾に突き出た城山に築かせた古代山城(朝鮮式山城)です。
日本書紀にも、天智天皇6年(667年)に「築倭国高安城。讃吉国山田郡屋島城。対馬国金田城」と高安城・屋島城・金田城を築いたとの記述があります。
明治期には城山砲台が築かれており、古代から近代を通して当地の軍事的な重要性がよくわかります。
今回は山頂には登らず、城跡東側のみ見学しました。
冒頭の東南角石塁を代表に、最も良く石垣が残る区画です。
金田城は石垣だけではなく、土塁も活用されています。
古代山城は山の周囲をぐるりと石垣・土塁で取り囲んだ構造をしており、自ずから谷に城壁を通す必要があります。
その際、沢の水を石垣の下に通すため水門が築かれます。
一ノ城戸
一ノ城戸までの道のりはアップダウンが激しく、道も良いとは言えないので、それなりの装備で行った方が良いですね。
また登山口まで林道が伸びていますが、対向可能なポイントが少なく、運転には注意が必要です。
「最強の城」にふさわしい見どころ満載のお城でした。
参考
金田城パンフレット
金石城と清水山城【2020/3/22】
対馬国府厳原に築かれた、対照的な二つのお城
1.金石城
対馬の中心街厳原には、対馬国を治めた宗氏によっていくつか城が築かれました。
初めに金石城(金石屋形)。
津島藩主宗氏歴代の居城です。
城といっても陣屋のような造りですが、なかなか面白い遺構が残っています。
二階建ての櫓門自体とても珍しいのですが(現存は姫路城ぬノ門・水ノ五門)、こちらは姫路城のものと比べ特異な構造をしています。
姫路城は渡櫓が単に二階建てになっているだけですが、金石城の櫓門は、1階より2階が小さく、2階の妻側が正面を向いていて、門に二重櫓をそのまま載せたような構造をしています。天守代用としてこのような造りになったようです。
大正まで現存していましたが老朽化により解体。現在の櫓門は平成2年(1990年)に木造で復元されたものです。
城の南側には石垣と堀が残っています。
あまり本土では見ない積み方です。
厳原周辺で産出する石英斑岩を利用しています。
庭園は発掘調査に基づき整備されており、国名勝に指定されています。
万松院(宗氏菩提寺)
金石城の搦手脇には、宗氏菩提寺の万松院があります。
宗氏廟所は国指定史跡です。
桟原城
延宝6年(1678年)金石城に代わる新たな居城として築かれました。
写真の高麗門が移築現存しています。
城跡には石垣も残っていますが、跡地は現在陸上自衛隊対馬駐屯地となっているので、写真撮影はやめておきました。
2.清水山城
金石城の背後の清水山(標高208M)に、肥前名護屋城と朝鮮半島を結ぶ中継拠点として築かれた城です。
一の丸・二の丸・三の丸の3つの曲輪が尾根上に配置され、各曲輪が石垣によって接続されています。(さながら「登り石垣」といった感じ)
石垣がよく残り、国指定史跡となっています。
各曲輪間には、このような石垣列が尾根の両側に続いています。
一の丸の二の丸側の石垣は二重になっており、実質食い違い虎口となっています。
城の至る所に岩盤が露出しており、曲輪も平らな部分はほとんどありません。
まさに陣城という印象を受けます。
参考
旧金石城庭園パンフレット
清水山城パンフレット
小島陣屋【2020/2/24】
小島陣屋は滝脇松平氏一万石の陣屋です。
宝永元(1704)年松平信治によって築かれました。
最大の特徴は、小規模な陣屋ながら石垣を多用している点です。
陣屋の西側・南側に2m×3段の石垣が築かれており、大手口もしっかりとした枡形になっています。
こうした点が評価され、平成18年7月28日国指定史跡に指定されました。
小学校として利用されていた御殿の書院が移築現存しています。
外見は屋根がトタンになっていたりと改変が多いですが、現存する陣屋建築は少ないため貴重です。
感想
切込みハギの石垣が見事でした。
帰りのバスの都合で見学時間が15分くらいしか取れなかったのが悲しい。
かといって1時間見るかというと…
公共交通機関を活用したお城巡りではよくある問題なので仕方ないですね。
参考
田中城【2020/2/24】
田中城も諏訪原城・小山城と同様に武田氏流築城術が見られる城です。
長方形の本丸の外側に円形の二の丸・三の丸を配置した、輪郭式の縄張りが特徴的で、丸馬出も6基設けられました。
地図を見ると、円形の縄張りが現在も土地の区画として残っているのがわかります。
城跡は宅地開発が進み、本丸には小中学校が建っていますが、所々に堀や土塁が残っています。
本丸の二重櫓が移築現存しています。
訪問時は修理中でした…
歴史
田中城の歴代城主で紹介しておきたいのが、依田信蕃という人物です。
依田氏は佐久郡の国人領主です。
信玄・勝頼の二代に信濃先方衆として仕えています。
長篠の戦いの敗戦後、徳川家康に包囲された二俣城をよく守り、半年間耐えました。
最後は城兵の助命を条件に開城。
甲州征伐の際には田中城を守り、再び家康に抵抗。勝頼が天目山で自害したとの報を受けるまで城を守り通しました。
これだけでもなかなかの名将だとわかりますが、さらに名を挙げたのが本能寺の変の後の武田氏遺領を巡る「天正壬午の乱」です。
佐久郡経由で甲斐に攻め込んだ北条氏直に対抗するため、佐久郡でゲリラ戦を展開し北条氏の補給路を脅かしました。また、北条氏に帰属していた真田昌幸を徳川氏に寝返らせています。
信蕃の活躍もあって、家康は甲斐・信濃の領有に成功しました。
信蕃本人はその後北条方の大井城攻略中に戦死してしまいますが、信蕃の功績に報い子の康国は小諸城6万石を与えられています。
江戸時代は短期間でに譜代大名が入れ替わり、本多正信の弟正重を祖とする三左衛門家の本多正矩が4万石で入封してからは本多氏が七代続き、徳川宗家の駿河府中転封まで城主となりました。
感想
市街化が進んでいる近世城郭に僅かばかり残る遺構を、街歩きして探すの好きなんですよね。
関東で言うと岩槻城とか。
三の丸東側の堀・土塁は思っていたよりもかなり残っていました。
今度は修理が終わった本丸櫓を見に行きたいです。
参考
https://www.city.fujieda.shizuoka.jp/material/files/group/116/sansaku1.pdf